関ヶ原合戦後も生き残った、石田三成の子孫のドラマチックな人生
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意外にも、三成の男子たちは処罰されることもなく、子孫は明治に至っており、さらに数奇な運命をたどっている。
「長女は石田家重臣の山田勝重に嫁ぎ、その子女は津軽藩に招かれて、津軽氏の一門並みの待遇を得て子孫を残した。
三女の辰子《たつこ》は弘前藩二代藩主津軽信枚の室となり三代藩主信義を生んだ。この血脈は多くの大名家に渡り、保科家を経由して寧子氏が三菱財閥三代岩崎久弥の妻となり3男3女を儲けている。
そしてもっともダイナミックな血脈を残したのが次女小石殿である。小石殿は蒲生家家臣岡重政に嫁いだ。岡重政は若狭国守護武田信豊の曾孫で、蒲生家内での権力争いでも勝ち抜いた武将である。小石殿は重政との間に嫡子吉右衛門を生んだ。
しかし重政は徳川家から輿入れした振姫と対立し、家康から駿府に呼び出され死罪となってしまう。息子の吉右衛門は同じ蒲生家臣の町野幸和の庇護を受け、その娘を娶り於振(自証院)を生んでいる。
この於振は春日局の養女となり、三代将軍徳川家光の側室として長女千代姫(霊山院)を生むのである。関ヶ原の戦いで敵味方に分かれた石田と徳川の血が37年の時を越えて一つの命を得るのである。
千代姫は尾張二代藩主徳川光友の正室となり、三代藩主|綱誠《つなのぶ》、高須藩主松平義行を生んだ。そして四代藩主吉通の娘三千君が内大臣九条幸教《くじょうゆきのり》に嫁ぎ九条稙基《くじょうたねもと》、二条宗基《にじょうむねもと》を生み、代々伝えて大正天皇妃となる節子《さだこ》(貞明皇后)へ至るのである」
西軍の敗将・三成の子孫が徳川将軍の側室となり、時を経て天皇家に嫁ぐ子孫も出るとは誰が想像できただろうか。
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